お釈迦さまの悟りって、一体どんなものだったんだろう。2500前に、菩提樹の下で坐禅をして、深い深い瞑想に入っていって、一つの悟りを開かれたと聞いてるんだけど、お釈迦さまは、そこで何を知ったんだろう。何を見たんだろう? なーんてちょっと高度な疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』──常に仏陀と共に歩め(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
釈尊が、坐禅をして、心の垢を取り除き、深い深い瞑想の内に入っていったときに見たものは、いったい何だったのでしょうか。
実は、釈尊は、「この地球上に、個々人が、小さな豆粒のような存在として生きている」というものではない世界を見たのです。「自分の内に、広大無辺な宇宙につながるものがある。その自分の内なる宇宙は、身長一メートル数十センチ、体重数十キロの、一個の体のなかに閉じこもっているものではない。それは無限に広がっていて、自分の目に見える、この三次元の宇宙をも包むほどの、大きな宇宙につながっているのだ」ということを知ったのです。
大宇宙の根本仏(根本神)がつくったと思われるような、無限の多次元空間の神秘。そのなかには、自己の魂というものも当然あるけれども、それを突き抜けて、さらに霊界世界があり、霊界世界のなかに、「魂の兄弟」(拙著『太陽の法』第2章参照)や、それ以外のさまざまな光の存在がある。また、天国・地獄といわれる世界があり、その世界のなかに、幸福に暮らしている魂たちも、不幸に暮らしている魂たちもいる。そうした広大無辺な霊的宇宙が、自分の内とつながっている。こういうことを発見したのです。
これは、「自分というものは、自分であって自分ではない。自分という存在がないわけではなく、それはあるが、その自分は、独立した一つの存在、切り離された存在ではないのだ。近代の哲学や文学が追究しているような、実存的な自分ではないのだ」ということです。
自分の内には、大宇宙そのものとつながっているものがあるのです。その大宇宙は、三次元の星の世界ではありません。さらにそれを包み込んだ大いなる宇宙とつながっている世界が、自分の内にあるのです。マゼランの航海を待たずとも、自分の心の内を見れば、はるかなる世界まで、自由自在に行き来することができたのです。(中略)
そして、釈尊は、「第一次的な霊眼によれば、自分と他人は別個の存在のようにも見えるが、もっと深い目で見たときには、自他は別のようであって別ではない。自他は別個に非ず、一体なり」ということを悟りました。「自分と他人、自分の魂と他人の魂は、別のようにも見えるけれども、そうではない」ということです。
これは、もちろん、魂的に近接な「魂の兄弟」とのつながりということでもありますが、それだけではありません。魂の兄弟たち以外にも、広大無辺な霊界に生きているものたちがいます。人間の魂もあれば、人間ではないもの、動植物の魂に相当するものも数多くいます。これらが、ばらばらに住んでいながら、実は同時に、協力し合い、あるいは依存し合って生きているのです。そうした世界であるということを、釈尊は悟ったわけです。
ちょうど、オーケストラのそれぞれの楽器の奏でる音楽が、全体として一つの曲をつくっているように、大宇宙のなかで、いろいろな生物たち、生命たちが、根本仏(根本神)の構想した曲を奏でているのです。そうした世界がそこにあるのだということを、釈尊は知ったわけです。
(192~196ページ)
釈尊(お釈迦さま)が菩提樹下で悟ったのは、第一に、自分の心の内が、三次元の宇宙はもちろん、天国・地獄といわれる世界をも包み込む、無限に大きな多次元空間の霊的宇宙につながっていること。
第二に、自他の魂は別のようであって別ではなく、実は一体であること。
たとえて言えば、オーケストラのそれぞれの楽器の奏でる音楽が全体として一つの曲をつくっているように、大宇宙のなかで、いろいろな生命たちが、根本仏(根本神)の構想した曲を奏でていることを知ったこと──。
うーん、今回も深遠な悟りの世界の話なので、これ以上やさしくまとめることは、私にはとうていできそうにありません。
言葉としてはわかるように思っても、これを実感として分かっているのかというと、それが分かったときが、まさに悟りを開いたということであって…。
いずれにしても、このような凄い教えを説くことができる大川隆法先生は、いったい何者であるのか。
まさに「現成の仏陀」(この世に下生された仏陀)その人である、という以外にないのだと私は理解しているのです。
